+他力とは…?教えていただいたkirinnデス+

kirinnの尊敬する友人よりお便りを頂きました…*


kirinnだけが知っているのでは、もったいない…と思ったので紹介させて頂きます




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親鸞聖人の「他力」解釈。

「他力といふは如来の本願力なり」(教行証文類)

というお言葉。
他力の他は阿弥陀如来、力とは本願力のこと。

如来の本願を他力本願と言っているのであり、
他人をあてにしたり、すがったりする生き方をいう言葉ではないということ。

しかし、もともとの大切な仏教語の意味が、
いつの間にか誤解を生む世俗の意味にすり替えられてしまいました。

本願力は「必ず摂め取って決して捨てない(摂取不捨)」というはたらき(力)となり、
「安心しなさい!、任せよ!」という「南無阿弥陀仏」の喚び声となって私に届きます。

この喚び声を聞き、目覚めることに条件があるわけではなく、
どのような状況、ご縁の中にあっても
横ざまに跳び超えて(横超)、即ちいただく(即得)というものです。
修行、学問、善行を積み重ねて得る(竪超)ものとは違います。
一生懸命の自力を経て到達するというものでもない。
絶望しなければ得られないというものでもない。

人生いろいろ、様々な機縁をいただくなかで出遇い、育まれていきます。
ただ、辛いこと、苦しいこと、悲しいこと、絶望などの深さからの機縁が多いことも事実でしょう。

また、横ざまにいただくと言っても、何年何月何日何時何分に目覚めたというのではなく、
お念仏をいただくままに、阿弥陀の光にお育ていただき、
護られていたことに気付くということです。

気付いてみればすべてが如来のはたらき、
99,9999...%の他力ではなく、100%他力。
全分他力であった、
すべてが如来さまのお手回しであった、という目覚めです。

味わえば味わうほど大悲の恩徳が仰がれ(法の深信)
己の不始末が抉り出されます。(機の深信)

その後は、

どこまでも自らの至らなさに気付き、
「煩悩具足の凡夫」「罪悪深重の凡夫」という
敏感な良心の悔悟に目覚めるのは阿弥陀の光に照らされたからです。

知識として浄土真宗や親鸞聖人の言葉をなぞっても何にもわかりません。

「弥陀仏本願念仏 邪見驕慢悪衆生 信楽受持甚以難 難中至難無過斯」
と『正信偈』にあるように、弥陀仏の本願によるお念仏の教えは、
因果の道理をわきまえず、知を誇り、驕り高ぶる人々にとって、
信じ保つことは甚だ難しく、「難中の難」と言われます。

しかしまた、

如来の本願のいわれを聞き開き、信心を得て、仏を敬い、大悲を慶ぶ者は
迷いの世界を横ざまに抜け出て浄土に生まれる身となることができる。
あたかも、本願念仏の大船に乗って運ばれ、航海を楽しむようなもの。

それが同じく『正信偈』の中で龍樹菩薩を讃えた
「信楽易行水道楽」という易行の教えです。

難易を感じるのは、本願念仏との出遇いを享けるか、
否かの分かれ道とも言えるでしょう。

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なまんだぶ  なまんだぶ
by k-yoko2525 | 2011-04-15 23:02 | 浄土真宗 Joudosinsyuu | Comments(0)

これでいいのかな? 仏教、教育、今の私…悩めるkirinnの1.2.3.ビジヨンです!


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